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アストリッド・リンドグレンのALLA SKA SOVA(みんなおやすみ)

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  2019年にストックホルムを訪ねた折、市立図書館近くの書店の店先に印象的な絵本が飾られていました。どんな来歴かも分からないまま、絵の持つ深い表情に魅せられるようにして購入しました。 その絵本は、アストリッド・リンドグレーン作詞の子守歌「ALLA SKA SOVA(みんなおやすみ)」に、 Marit Törnqvist(マリット・テルンクヴィスト)が絵を添え2019年4月に出版されたもの。同年リンドグレーンの生家では原画展が開催され、演奏会も開かれたといいます。 申し上げるまでもなく、リンドグレーンは、スウェーデン国民にとってノーベル文学賞を採って欲しかった作家であり、女性として、母として、働く女性として夢をもって生きることの意味を体現した理想の人でした。2002年、94歳で他界されましたが、葬儀の際にもこの子守歌が流され、それを聞いたテルンクヴィストは、この絵本を制作することに決めたのだといいます。 描かれているのは、真夏の白夜の田舎の風景。白夜の時期は夜の8時9時頃になってやっとお日様は沈みます。日没近くに一匹の黒猫が家を出て、牧場を通り、湖水を眺め、森を抜け、宵闇とともに家に戻り、男の子のベットに潜り込んで眠るというシンプルな物語です。 白夜の独特のあかねいろの空やその光を受けた風景が、静かな情熱とともに印象的に描かれていて、リンドグレーンのオマージュになっているのだと思います。 もともとこの子守歌は、映画「やかまし村の子どもたち」(1986年)のためにリンドグレーンが作詞したもの。映画では、麦わら小屋で3人の女の子が眠りながら歌うというカットに使われています。そのカットには、森のキツネや牧草地で眠るひつじの画像が挿入されていて、テルンクヴィストの絵と美しく共振しているようにも感じます。一度、この絵本を手に取ってご覧いただければと思います。

ヨブス姉妹がイラストを手掛けた楽譜本

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 有機的な植物柄が印象的なスウェーデンの手刷りテキスタイル工房 〈 JOBS HANDTRYCK 〉。その創業者デザイナーの姉妹 リスベット・ヨブス ( Lisbet Jobs 1909 〜 1961 )と ゴッケン・ヨブス ( Gocken Jobs 1914 〜 1995 ) は、それ以前、陶芸家として活躍していました。 写真は、2人が1939年頃に表紙イラストを手掛けた貴重なヴィンテージの楽譜本です。 1939年当時、世界は第二次大戦へと突き進んでおり、ドイツナチスがポーランドに侵攻、11月にはフィンランド-ソ連の冬戦争が勃発しました。 スウェーデンは戦火を免れたものの、経済的な混乱や物資不足は深刻だったといいます。陶芸作家として活動していた2人 にとっても、作品制作は次第に困難となりました。 そんな時、「 陶芸で描いてきた様々な花柄のモチーフをテキスタイルに活かしてはいかが。」という NK(エヌコー・デパート) のテキスタイルデザイナーの奨めにより、ヨブスのプリント・テキスタイルが動き出しました。1944年のことです。 実は、写真右ゴッケン・ヨブス作画の楽譜本は1962年再出版のもの。中表紙には「TILL LISBET JOBS(リスベット・ヨブスへ)」とあります。リスベッドは、音楽家の夫との間にふたりの子をもうけ1961年に52歳の若さで急逝しています。

白樺樹皮・木地の手工芸に関する書籍について

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 白樺は、痩せ地にも生え、陽樹と呼ばれ、陽の光を浴びて成長は早く寿命は短い。朽ちて土地の滋養となり、やがて豊かな雑木林を育てることから、「マザーツリー」と呼ばれています。 倒木して材は腐っても樹皮は残ります。樹皮には、ベチュリンという物質による殺菌効果があり、油分を多く含み、水をはね、長持ちし、北欧〜ロシアなど亜寒帯地方、日本でも北海道のアイヌの人々の間では、古くから屋根葺き材やカヌーの外皮材、松明や編み込んで野良の用具や生活雑器として利用されてきました。 北欧、特にフィンランド、スウェーデンには、白樺樹皮及び木地による手工芸の伝統があります。「白樺樹皮」はフィンランド語でTUOHI(トゥオヒ)、スウェーデン語でNÄVER(ネーバル)と言い、皮革や布地と同様の素材として生活の中に溶け込んできました。 ちなみに、「白樺」はフィンランド語でKOIVU(コイヴ)、スウェーデン語でBJÖRK(ビヨルク)。 生活の必需として伝統の重ねられてきた木工手工芸の技法は、当地で今日も大切に受け継がれ、新たな工芸作家や活動家が登場し、また自然素材が備える温かみや柔らかさ豊かさが、環境意識の高まりとともに再評価もされています。 下記は、フィンランド、スウェーデンで出版された白樺樹皮及び木地手工芸に関する書籍です。 白樺手工芸の本をオンラインショップで見る >>  elama.jp

永遠のグラスアートブランド「ヌータヤルヴィ」

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フィンランド最古のガラス工場、ヌータヤルヴィ。 ヘルシンキからおよそ 150km 北西。広大な森林をかかえたヌータヤルヴィ村に、 1793 年、ガラス工場ヌータヤルヴィ社( Nuutajärvi )が設立されました。当時、高まりつつあったガラスの需要に応えて、窯業に必要な森林資源の豊富なこの村が選ばれたのです。   ヌータヤルヴィの世界を確立したカイ・フランク。 創業以来、様々な実績とガラス窯業の伝統を重ねてきたヌータヤルヴィ社でしたが、 1947 年の火災により甚大な被害を受け、アラビア製陶所( ARABIA )を傘下に持つヴァルッツィラ (Wärtsila) グループに買収されました。それとともにアラビア製陶所で活躍していたデザイナー、カイ・フランク (Kaj Franck1911-1989) がアートディレクターとして参画。戦後は、彼のリーダーシップの元、フィンランド有数のアートガラスメーカーへと成長していきました 。   ヌータヤルヴィの森で生まれたオイヴァ・トイッカの[バード]。 ヌータヤルヴィ社には、カイ・フランクに続くように様々な作家が加わりました。例えば 1952 年にはサーラ・ホペア( Saara Hopea 1925-1984 )が、カイ・フランクのアシスタントとして採用されました。サーラがデザインした積み重ね型[タンブラー 1718 ]、カイ・フランクのプレスガラス製[タンブラー 5023 ][タンブラー 2744 ]は、戦後の美しい日用品のシンボルとなりました。 1963 年、オイヴァ・トイッカ ( Oiva Toikka 1931-2019 ) がデザイナーとして参画。次々と個性豊かな作品を発表し、ヌータヤルヴィの森と湖水を背景して、 1972 年[バード]が誕生しました。 その他にも、グンネル・ナイマン (Gunnel Nyman1909-1948) 、ヘイッキ・オルヴォラ (Heikki Orvola1943-) 、ケルットゥ・ヌルミネン (Kerttu Nurminen1943- )などのデザイナーが ヌータヤルヴィ社で活躍しました。   ヌータヤルヴィ・グラス・ヴィレッジ。 1970 年代、ヌータヤルヴィ村は、 Nuutajärvi Glass Village という名称となり、観光事業も進められました。その一画には Nuutajä

デンマークのテキスタイルデザイナー

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Marie Gudme Leth|En pioner i dansk stoftryk デンマークには、独特のテキスタイル・デザインがあります デンマークには、フィンランドやスウェーデンとは異なる北欧デザインがあります。それは、デンマークが、ヨーロッパにいちばん近いせいか、世界を股にかける海運大国の伝統のせいか。常に、外の文化を柔軟に許容する懐のひろさがデンマークデザインの特徴ではないかと思いま す。 ジャワとフランクフルトのテキスタイルデザイン 例えば、テキスタイルデザイナー、マリエ・グルメ・レット(Marie Gudme Leth1895-1997)。デンマーク装飾美術館に勤務する中で出会ったアジアのろうけつ染めに興味を持ち、20台後半ジャワに渡り、現地でバティック技術を習得しました。さらに30才台には、ドイツ、フランクフルトの装飾芸術学校(Kunstgewerbeschule)でテキスタイルプリントの最新技術を習得します。 アジアンでもユーロピアンでもない 彼女の初期の作品は、木版スタンプによるブロック技法で制作された作品が多く、単色か少数の彩色。プレーンな生地にアイコンモチーフが整然と並んだデザインが主流です。 北欧の多くのテキスタイルデザインとは雰囲気が異なり、アジア的ニュアンスが感じられます。 Marie Gudme Leth|En pioner i dansk stoftryk Marie Gudme Leth|En pioner i dansk stoftryk シルクスクリーン技法で洗練されたデザイ ン 1930 年代後半以降、自らのスタジオを立ち上げ、技法はシルクスクリーン印刷に変わり、リピートされたパターンによる構成が中心となりました。1940 年代までには、デザインと配色がより洗練され、植物や動物のモチーフがあふれていきました。 イタリアと近東の旅でインスパイアされたもの 1950年前後から図案は次第に具象性を脱し、モザイクパターン、幾何学的なデザインに移行します。色調も次第に濃度を深くし、時にはビビッドなデザインの図案も制作されました。これらは古代モザイクのあるイタリア (ラヴェンナ) と近東への旅行が、急進的なスタイルの変化をもたらしたといいます。 Marie Gudme Leth|En pioner i dansk stoftryk M

デンマーク、器の世界 Danske STEL

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Danske STEL   〜 fra blå blomster til grove glasurer デンマークのサーヴィス 〜 青花から粗い染付まで デンマークの名陶「ロイヤル・コペンハーゲン」。藍のハンドペイントによる「ブルーフルーテッド」は有名ですが、1775年の開窯から現代に至るまで、様々な作家による サーヴィスの世界がひろがっています。本書は、その大きな流れを網羅的に知ることのできる数少ない一冊となっています。 本書が刊行されたいきさつについて   2010 年、デンマークの CLAY 陶磁器美術館( CLAY Keramikmuseum Danmark )は、 約 55,000 点に及ぶ歴史的価値のある食器アイテムの寄贈を ロイヤル・スカンジナビア・グループから 受けました。 このグループの傘下には「ロイヤル・コペンハーゲン」はじめ、デンマークで二番目に古い磁器製作所「ビング・オー・グレンダール( Bing og Grøndahl )」や陶器製作所「アルミニア( Aluminia )」があり、寄贈の品々は 18 世紀後期から現代に至るまでデンマークのサーヴィスすべてを網羅するものでした。 CLAY 陶磁器美術館での企画展 CLAY 陶磁器美術館では、これら寄贈の品々の展示整理を行った上、 2021 年に企画展「 Danske STEL -fra blå blomster til grove glasurer (デンマークのサーヴィス  - 青花から粗い染付まで)」を開催。同時に本書が刊行されました。 歴史的な変遷に沿った 20 カテゴリー   本書では、様々なデンマークのサーヴィスが、歴史的な変遷に沿って 20の カテゴリーで紹介されています。その主な作品群を取り上げますと… ロイヤル・コペンハーゲン開窯期   1775 年、王室後援により「ロイヤル・コペンハーゲン(王立磁器製作所)」が開設され、その第一号のデザインとなったのがブルーフルーテッド。デンマーク語では「 Musselmalet (ムースルメイルット : ムール貝)」。当陶磁器制作所を代表するデザインとして今日もなお多くのファンを引きつけてやみません。。 さらに「 Blå Blomst (ブロ・ブロムスト : 青花) 1779 年」、「 Flora Danica (フローラ・ダニカ) 179

蛸壺とライ麦固パン -カイ・フランクの書籍について

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カイ・フランクは、南カレリア地方に生まれました。   カイ・フランク( Kaj Franck 1911-1989 )は、スウェーデン系フィンランド人としてヴィープリ(現ロシア領のヴィボルグ)に生まれました。スウェーデン語を母国語とする少数派のフィンランド人として、フィンランドに先行するスウェーデンの手工芸運動をいち早く知る環境にもありました。   軍務の 5 年間は、彼の社会意識を大きく変えたと言います。   1932 年ヘルシンキ中央工芸学校を卒業。ソ連軍との熾烈な「冬戦争」に突入した 1939 年に徴兵され、砲兵隊で過ごした 5 年間は、彼の社会意識を大きく変えたと言います。生活環境も言語的背景も自分とは大きく異なる人々と連帯する中で「日常生活」の本質を問う姿勢が生まれした。   機能美にあふれた現代テーブルウェアの基礎をつくりました。 ヌータヤルヴィガラス窯にて 手前チェック柄のシャツの方が、カイ・フランク アアルト大学講義風景   戦後、アラビア製陶所、イッタラガラス窯、ヌータヤルヴィガラス窯に勤め、「ティーマ」や「カルティオ」など、機能美にあふれた現代テーブルウェアの基礎をつくりました。その手腕は世界的にも脚光を浴びました。また、デザイナーとしての作業とともに、デザイン教育につも重要な役割を果たし、現アアルト大学等でデザインの教鞭を取るなど後進の指導にもあたりました。   最後の展覧会、テーマは「日本との邂逅」。   日本から持ち帰った蛸壺 市井の 農家にて カイ・フランク自身の撮影 1989 年、カイ・フランクが亡くなったこの年、最後の展覧会がヘルシンキ美術デザイン大学ギャラリー( UIAH Gallery )で開催されました。「ルニング賞での日本への旅行  1956 ― アジアにおけるひとりの野蛮人 ―(Lunningmatka 1956 “ En Barbari I Asien ”) 」と題したこの展覧会では、日本の市井の写真や日本から持ち帰った鉄瓶、お面などとともに、フジツボが付着した蛸壺が象徴的に飾られました。日常で永く使い続けられる必然性こそデザインの本質であることを伝える意図が、そこにありました。   以下、カイ・フランクに関する主な書籍をご紹介します。   KAJ FRANCK  MUOTOILIJAN TUNNUSTUKSIA FORM

ARABIAの陶芸家、トイニ・ムオナ

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Toini Muona 1904-1987 オーガニック・モダニズム トイニ・ムオナ( Toini Muona 1904-1987 )は、 1931年にアラビア製陶所に入所。翌年、所内に創設された「アートデパートメント (美術部門)」 の初期メンバーとなり、1940年代50年代を中心に陶芸家として創作に注力しました。 温かくしなやかな作風、自然の造形美を思わせる奥深い表現手法は、「オーガニック・モダニズム」と評されました。本書は、トイニ・ムオナの陶芸作品を年代ごと順を追って紹介しています。大判の書籍で、見開きいっぱいに映し出される作品写真はとても印象的です。 そもそも 〝ARABIA〟は、 アラビア地区に創業 フィンランドのアラビア製陶所は、スウェーデンの名窯ロルストランド製陶所の子会社として、1873年ヘルシンキのアラビア地区に創業。当初は ロシア市場向けの陶磁器や衛生陶器などを生産していました。 1916 年に ロルストランド製陶所から独立すると、その後は、ヨーロッパ最大の規模にまで成長しました。 アート・デパートメント設立 1932 年、所内に「アート・デパートメント(美術部門)」が設立されます。この部門では作家が大量生産品の製造に係わることなく、 自由な創作の場の提供となりました。 アート・ディレクターには、クルト・エクホルム( kult Eckholm1907-1975 )。メンバーには、ビルゲル・カイピアイネン( Birger Kaipiainen1915-1988 )、ルート・ブリック( Rut Bryk1916-1999 )、キューリッキ・サルメンハーラ( Kyllikki Salmenhaara1912-1999 )等、そして本書が紹介するトイニ・ムオナが参加しました。 轆轤を回す トイニ・ムオナ 干し草   Heiniä 彼女の作品に特徴的なのは、1940年代頃からの筒花瓶で、風にゆれるようにたわんで 伸び上がるその形を、自身が「干し草(Heiniä)」と呼んでいました。この造形は、その後も引き継がれ様々なスタイルとともに変化していきました。 干し草(Heiniä) 1951年 ミラノ・トリエンナーレ金賞 1951年のミラノ・トリエンナーレでは、「干し草」とともに、青味を帯びた釉薬 と 銅紅釉 による花瓶が金賞を受賞しました。ふくよかな 器面全体

スウェーディッシュ・モダンの源流を訪ねて

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Lilli & Prinsen|100 år av hemslöjd och textil konst 産業革命のうねり 18世紀後半、イギリスに端を発した産業革命のうねりは、ヨーロッパへアメリカへと押し寄せましたが、一次産業が主であった北欧諸国へは100年近くの時差をもって到達・浸透することとなりました。今にして見ると、その時差は、その後の北欧モダンを育むために必要な大切な猶予期間だったのではないかと思います。 スウェーデン手工芸協会 とはいえ19世紀後半、例えば、スウェーデン各地の農業生産者・手工芸生産者は、近代工業化の勢いに押されるようにして困窮を極めていきました。その状況に応じて、生産と販売を支援する手工芸運動も活発化し、なかでも1899年に設立された「スウェーデン手工芸協会(Föreningen för Svensk Hemslöjd)」は、伝統的な手工芸生産者の生活を支えることに貢献したといいます。 リリィとエウシェン王子 その中心的な役割を果たしたのがテキスタイルデザイナーのリリィ・シッカーマン(Lilli Zickerman 1858-1949)と、彼女を支え続けたエウシェン王子(Prins Eugen Napoleon Nikolaus  1865-1947)でした。リリィは、1910年〜1932年にかけてスウェーデン全土を歩き、各地の手工芸による織物を調査し、約24,000枚の写真からなる伝統的な民族織物の目録を完成させました。 伝統からモダンへの継承 二人の献身的な活動は重要な意味を持ち、伝統的なテキスタイルデザインは、時代の変革期を経ても毀損されることなく、現代に至るスウェーデッシュ・モダンの中に継承されていったと言っても過言ではありません。 王子の邸宅の美術館にて 本書は、スウェーデン手工芸協会連合会(Hemslöjdsföreningarnas Riksförbund)創設100周年を記念し2012年に開催された企画展の図録です。会場は、ストックホルム、ユールゴーデンにある王子の邸宅を美術館にしたプリンス・エウシェン・ヴァルデマシュウッデ美術館(Prins Eugens Waldemarsudde)。伝統とモダン、その両方のテキスタイル・アートを対比して眺めることもできる美しい一冊となっています。 Lilli & Prin

3人のヨブス姉弟による手刷りテキスタイル

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Jobs keramik & textil ていねいに手刷りで仕上げられたヨブスの布地 いろとりどりの花々が一面に咲き誇るヨブスのテキスタイル。布地を部屋に飾るだけで心が潤います。一枚一枚をていねいに手刷りで仕上げられているせいか、実際に手に取ったとき風合いが深く感じられます 。工房の 「ヨブス・ハンドトリュック〈 Jobs handtryck 〉」は、スウェーデン、ダーラナ地方。緑と湖水の青がまぶしいシリアン湖の西にあります。 創業は1944年。ペール・ヨブス ( Peer Jobs 1913-1989 )、 リスベット・ヨブス ( Lisbet Jobs 1909 〜 1961 )、 ゴッケン・ヨブス ( Gocken Jobs 1914 〜 1995 )の 兄弟姉妹を中心にスタートしました 。 陶芸作家から、テキスタイルデザイナーへ 創業以前、リスベットとゴッケンの姉妹は、 ストックホルムに陶芸工房を開き、陶芸作家として活動していました。二人 は 1937年 パリ万博、 1939年NY 万博に出品するなど陶芸作家として国際的にも注目されていたところでした。 1939年に第二次世界大戦が開戦となり、スウェーデンは戦火を免れたものの、経済的な混乱や物資不足は深刻だったといいます。二人の陶芸作家にとっても、良質な粘土や釉薬などの素材供給の制限がかかり、作品制作も次第に困難となってきました。 そんな時、「 陶芸で描いてきた様々な花柄のモチーフをテキスタイルに活かしては、いかが。」 NK(エヌコー・デパート) のテキスタイルデザイナーの奨めにより、ヨブスのプリント・テキスタイルが動き出しました。ペールが仲間と立ち上げていたシルクスクリーン工房の活動とともに。 Jobs keramik & textil Jobs keramik & textil ちなみにリスベットは、音楽家の夫との間に二人の子供をもうけ 1961 年に急逝。 1940 年代の前半までの陶芸活動によって、『スウェーデンを代表する女性陶芸家』としても名前を残しました。 一方、ゴッケンは生涯独身で、数多くのテキスタイルデザインを世に送りました。ヨブス工房以外の作品依頼にも応じ、スウェーデンのテキスタイル業界で、さまざまな功績を残しています。 ヨブスの本をオンラインショップで見る &g